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マンティネイアの戦い(英:Battle of Mantinea)はペロポネソス戦争において紀元前418年にスパルタおよびその同盟国とアテナイ、アルゴスおよびその同盟国との間で戦われた会戦である。 == 背景 == 紀元前421年にニキアスの和約が締結され、ペロポネソス戦争は終結したかに見えた。しかし、翌紀元前420年のアテナイ、アルゴス、エリス、マンティネイアの同盟締結〔トゥキュディデス, V. 46-47〕、さらに翌年の紀元前419年のアルゴスによるエピダウロス侵攻を受け、スパルタとアテナイおよびアルゴスとの関係は緊張を孕んだものとなった。紀元前418年、ついにスパルタが動いた。スパルタは同盟国も合わせた「これまでギリシア史上に類を見ないほどの」〔ibid, V. 60〕軍を王アギス2世の指揮の下に派遣した〔ibid, V. 57〕。彼らは有利に戦いを進めたが、アルゴス側の提案を受けたアギスは独断でアルゴスと4ヶ月の停戦協定を結び、撤退した〔ibid, V. 60〕。その後、アテナイ(ラケスとニコストラトス率いる歩兵1000と騎兵300)、エリス、マンティネイアからの援軍を受けたアルゴスはオルコメノスを攻撃して降伏させ〔ibid, V. 61〕、テゲアを次の標的として攻撃の準備をした(この時レプレオン攻撃を主張したものの受けいられなかったエリス軍は帰国した)〔ibid, V. 62〕。このために勝手に敵と停戦し、みすみすアルゴスにオルコメノスを渡す原因を作ったアギスは激しい非難に晒され、スパルタ人は10万ドラクマの罰金と家屋の取り壊しを決議しようとした。この時アギスはこの失敗と罰を勝利によって雪ぐと約束し、それができなければ何なり罰を受けると懇願した。そこでスパルタ人は刑の適用はひとまず措き、軍事遠征の際にスパルタ市民から10人の相談役を彼につけ、軍事行動は彼らの同意がなければできないようにするという前例のない法を設けた〔ibid, V. 63〕。 その後、スパルタへとテゲアより救援を求める使者がやって来ると、スパルタはアルカディアの同盟国に参加を呼びかけ、軍を動員してアギスをその総司令官として出陣した。テゲアはラコニアへの入り口に位置し、スパルタにとっては防衛上の重要地点であった。やがてアルカディア軍が合流し、スパルタ人はコリントス、ボイオティア、フォキス、ロクリスといった同盟国にも参加を呼びかけた。その一方でスパルタ軍は囲魏救趙の作戦としてテゲアの北に位置するマンティネイア領に侵攻し、荒らしまわった〔ibid, V. 64〕。スパルタが参加を呼びかけたコリントスなどの同盟諸国はスパルタの援軍に向かうにはアルゴスやオルコメノスの領地を通らねばならなかったために、結局のところ戦いに参加できなかった。 スパルタ軍のこの行動を受け、アルゴスとその同盟軍は敵へと向かい、険しい丘の上に着陣した。アギスはそれに攻撃を仕掛けようとしたが、長老の一人が「禍で禍を癒すつもりか」と言い、有利な地点に陣取った敵に挑むという無謀な行動をとることを諌めたため、アギスは攻撃を取りやめ、テゲア領へと軍を退いた。なお、ディオドロスはこの時アギスを諌めたのは相談役の一人のファラクスなる者であると伝えている〔ディオドロス, XII. 79〕。次いでテゲア領へと到着したアギスは敵を平地へとおびき寄せるという意図も持ちつつ、テゲア領のある暴れ川の流れをマンティネイア領を浸水させるためにそちら側へと変えようと工事を始めた。これに対し、アルゴスとその同盟軍は当初は突如退却した敵の意図を測りかねていたが、やがて敵へと向っていった〔トゥキュディデス, V. 65〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マンティネイアの戦い (紀元前418年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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